登山コラム《山記者小野博宣の目》
2018年7月1日 美ケ原




美ケ原

 美ケ原という名前には、どこか洗練された響きがある。明治維新より後、観光というものが意識されるようになってから、その名がつけられたのではないか。そう思う人もいるだろう。名著「日本百名山」で、著者の深田久弥は「昔は美ヶ原という名はなかった」と記し、「人間の楽しむ美しい原として登場したのは、昭和になってからだという」と語る。私も「そうだろう」と共感していた。美ケ原を訪れるまでは。
最高峰の王ケ頭
最高峰の王ケ頭

 2018年7月のよく晴れた日、美ケ原に向かった。早朝5時に長野県松本市内のホテルをレンタカーで出発し、6時半には「道の駅美ヶ原高原美術館」の広い駐車場についた。止まっている車はまばらだったが、あたりを濃い霧が覆っていた。山岳の気象予報専門会社「ヤマテン」の予報では、「朝は晴れる」とあった。それを信じて待っていると、白いもやは消え去り、青色が大空を染めた。ハイキングの準備を始め、7時半に一歩を踏み出す。
 まず牛伏山(1990㍍)に向かう。草原を木道が横切り、ゆるやかな登りが続く。このまま歩き続けると、虚空に引き込まれそうな錯覚に陥った。ほんの15分で山頂に到達した。360度の視界が開け、遠くまで緑のじゅうたんが敷き詰められている。放牧された牛が点々と見える。湿り気のある冷たい風がほほをなでた。別天地とはここのことを言うのだろう。
 放牧地を下り、牛伏山を振り返った。人っ子一人いない。早朝に歩き始めたご褒美だろうか。絶景を独り占めにした。
牛伏山に続く木道
牛伏山に続く木道

 高原のシンボル「美しの塔」を経由して、塩くれ場の分岐へ。台地のへりを縁取るように歩く「アルプス展望コース」を選ぶ。遠くにかすむ山並みを見ながら、最高峰の王ケ頭(2034㍍)へ。山頂に建つホテルと林立する電波塔が見えてくれば、そこが目指す場所だ。
美しの塔
美しの塔

 遠くに松本市街を見下ろす王ケ頭を後にして、王ケ鼻(2008㍍)へ。20分ほどでついた。「美ヶ原の中で一番景色が美しい」とされる山頂からは、日本百名山の三分の一近くが見られるという。だが、訪れた日は北アルプスの山々に雲がかかり、重畳たる山並みを見ることはできなかった。
王ケ鼻から松本市街を望む
王ケ鼻から松本市街を望む

 そこから「美ヶ原自然保護センター」にも足を伸ばした。美ヶ原の歴史や自然について、写真など展示物で学ぶことができる。
 見学していると、「美ヶ原の歴史と人との関わり」のコーナーに次の文章を見つけた。
 「美ヶ原という呼び名はたいへん現代的ですが、江戸時代の『信濃奇勝録』にはその名がでています」
 信濃奇勝録は1834年に脱稿したとされる。後日、その「巻之一」をネット上で読むと、王ケ鼻山頂などで観察できる板状の石について「美ヶ原の片石」と紹介している。これは板状節理のことではないかと思われる。
 さらに昔にも記録はあった。1724年に松本藩主の命によって編さんされた調査報告書「信府統記」には、「……うつくしが原と云あり此原は山の上の平にて凡そ二三里に及へり是より富士山其外近国の大山皆見ゆ……」との記述が読み取れる。
 江戸時代の人々も雄大な景色や草原の美しさにひかれたのだろう。「美ケ原は昭和になってから名づけられた」とする説は、退けざるをえない。
 では、なぜ「美ケ原」と呼ばれるようになったのだろう。語源を知りたくなるのだが、それについては判然としない。だが、考えるよすがはあった。
 美ケ原高原のふもとにあるキャンプ場の創業者・故赤広寿郎さんは自身のホームページに書き残していた。
 「地元では、美ヶ原を『ウツクシ』と呼ぶ。美ヶ原高原でも美ヶ原でもなく、単純明快に『ウツクシ』で場所が特定できる。放牧や採草、伐木や炭焼き、或いは山越えの中で、咲き誇る高山植物、神々しい景観に『ウツクシ』と云ったのではないか」
 美ケ原を訪れた者であるならば、時代を問わず、「美し」と吐息をついただろう。赤広さんの推測は、大いにうなずける。
人懐っこい牛が寄ってきた
人懐っこい牛が寄ってきた

 帰路は牛伏山を経由して駐車場に戻るコースをたどった。草原に若者のグループやカップルの笑い声が響いていた。
 「ここが美ヶ原か。思っていたよりずっと素晴らしい」と、純愛小説の中で主人公の青年に言わせたのは、旧制松本高校出身の作家・北杜夫だ。この感慨は、若き日の作家自身のものであっただろう。
 天井が抜けたようにのびのびとして、清々しい美ケ原には、躍動する若者が似合う。そんな気がしてならない。
ここは北海道ではなく、長野県です。美ケ原の広さが分かる
ここは北海道ではなく、長野県です。美ケ原の広さが分かる

●アクセス●
 松本駅から、アルピコ交通バス「美ヶ原高原美術館線」に乗車する。だだし、運行は夏季のみとなっている。乗用車やレンタカーがお勧め。

●引用・参考文献●
・「日本百名山」(深田久弥・著、新潮文庫)
・「神々の消えた土地」(北杜夫・著、新潮文庫)
・国立国会図書館デジタルコレクション「信濃奇勝録」
・国立国会図書館デジタルコレクション「信府統記」
・キャンプ場「漁樵カオス」ホームページ

●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長などを経て現在、大阪本社大阪営業本部長。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。同社の山岳部「毎日新聞山の会」会長