登山コラム《山記者小野博宣の目》
2018年10月31日 雲見ハイキング・尾瀬ケ原




雲見ハイキング・尾瀬ケ原

 「では、皆さん、コンパスを出してください」。そよそよと秋風がほほをなでる尾瀬ケ原の早朝、気象予報士の猪熊隆之さんが集まったハイカーに声をかけた。山小屋「竜宮小屋」の玄関前でのことだ。天気はうす曇だが、青空も垣間見える。風が吹いてくる方角をコンパスで確認すると南西だった。猪熊さんはそちらを指差しながら、「山では風向きの変化が天候変化のサインとなることが多いので、まず外に出たら風向を確認します。さらに、歩いている途中も開けた風通しの良い場所で、風向きに変化がないか確認していきましょう」。湿った風が山肌にぶつかれば、上昇気流となり雲が発生する。雲は天気が変化する兆候となる。だから、出発前に風向を知ることはとても重要なことだ。習慣にすれば、安全登山に寄与することは間違いないだろう。

紅葉の中を尾瀬ヶ原に向かう

紅葉の中を尾瀬ヶ原に向かう

 山の天気を予想して、安全登山の役に立てる。その力を養うための「雲見ハイキング」を猪熊さんは各地で行っている。2018年10月中旬に行われた今回のハイキング(主催・毎日新聞旅行=東京=)は、尾瀬ケ原を2日間にわたり歩き、雲や風の様子を観察し、天気の知識を深めることが目的だ。
 私事になるが、筆者が山の天気について学んだのは、猪熊さんによる机上や実地講座だった。雲取山(東京)や白馬岳などに出かけ、猪熊さんとともに空を眺めて、気象に関する知識を深めたものだ。登山ガイドに合格できたのも氏のおかげだと思っている。
 猪熊さんを先頭とする一行は、山小屋が集まる見晴地区へ。正面には雲がまとわりついた燧ケ岳(ひうちがたけ、2356㍍)がそびえる。「雲が上がってきて、蒸発していますね。雲が上昇すると、普通は成長して濃くなっていくのに、蒸発していくのは天気の良い証拠です」
 湿地帯の草原(くさはら)をのんびりと歩く。遠くには、シラカバやダケカンバの林が見える。木道脇には黄金色の花びらが揺れていた。初夏に咲くリュウキンカだろうか。花言葉は「必ず来る幸福」。縁起物を見たようで、心が弾む。

竜宮小屋の前で解説する猪熊隆之さん

竜宮小屋の前で解説する猪熊隆之さん

 尾瀬ケ原の朝霧についても、「池塘(ちとう、湿原にできる池)や川の水分が蒸発して水蒸気となり、それが朝の冷え込みで雲粒(うんりゅう、雲を構成する水滴や氷の結晶)に変わっていく。それが尾瀬ケ原の朝の風物詩、朝霧の正体です」と語った。
 東電小屋の前では尾瀬ケ原の雄大な光景が広がった。その向こうには、至仏山(しぶつさん、2228㍍)の稜線が見える。猪熊さんは「大気の安定層に雲が抑えられて、至仏山(の山頂)が顔を出していますね」と言う。
 木道を歩いている途中、後ろを振り返ると、
雲がすっかり取れた燧ケ岳が見えた。池塘には、堂々とした姿が映っていた。逆さ燧ケ岳だ。
 休憩所のある鳩待峠に到着し、さわやかな山旅を終えた。「天気のリスクを減らすために、これからも勉強を続けましょう」と呼びかけた。

季節はずれのリュウキンカと思われる花

季節はずれのリュウキンカと思われる花

 猪熊さんは常々「平地の天気予報と、山頂の予報は違います。テレビやネットなどの天気予報を鵜呑みにしないで」と訴えている。
 猪熊さんの指摘する通り、私たちが手軽に入手できる天気予報は平地のものだ。東京や大阪が真夏日でも、富士山頂(3776㍍)は10度以下ということはよくある。こんな時に夏の服装だけで富士山に登頂したら、低体温症のリスクは大きくなる。私たちは往々にして新聞やネットなどの天気予報だけを見て、登山の決行を決めてしまう。だが、大切なのは天気図など既存の情報から「山の天気」を予想することだ。その力をぜひ身につけたいと思う。
 その近道は、猪熊さんが社長を務める国内唯一の山岳気象予報専門会社「ヤマテン」の情報を利用したり、氏の著作を読み講義に参加したりすることだと思う。私自身が身を持って体験したことだ。別項で体験的“猪熊さんの利用法”を紹介しよう。

逆さ燧ヶ岳

逆さ燧ヶ岳

●猪熊さんと「ヤマテン」を利用する●
「ヤマテン」の設立は2011年秋。国内外の山で活躍した猪熊さんが「山の安全に役立ちたい」と願ってのことだ。ヤマテンの最大の特徴は、山を知る気象予報士たちが最新のデータを基に、“手づくり”の予報を提供していることだろう。一つ一つの山岳が持つ独特の気象状況や変化に、最新のデータを加味して予報を行っている。
 現在では全国18山域、59山の山頂の天気予報を有料(月額300円税別)で提供している。「機械」ではなく「人」が予報業務を行っているだけに、山域が限られるのは致し方のないことだ。
 一方、気象予報士が山域ごとに、なぜこの予報になったのかを「解説コメント」として記している。山の天気を理解するのに役立っており、ヤマテン独自のシステムとして評価できる。予報士が実名でコメントをしているだけに、どこか緊張感が伝わってくる。

燧ヶ岳は雲の中

燧ヶ岳は雲の中

 山の天気を知り、学ぶためには、解説などより多くの情報が得られる有料会員になることが基本だと思う。私は、同社が提供する予報と解説、大荒れ情報などを読んだ上で、新聞や気象庁の天気図や予報も見て、自分が登る山の天気を考えるようにしている。
 さらに、山の天気を予想する具体的なノウハウを知るために、猪熊さんの著書を精読することを勧めたい。
 まず、山岳気象を学ぶための決定版は「山岳気象大全」(山と渓谷社)だろう。300ページを超える大著だが、読む価値は十分すぎるほどある。私は2回通読し、現在も必要に応じて各項目をひも解いている。

至仏山と雲のコントラストが美しい

至仏山と雲のコントラストが美しい

 ヤマケイ新書の「山の天気にだまされるな! 気象情報の落とし穴を知っていますか?」(山と渓谷社)も、ぜひ手に取りたい一冊だ。新書版ということもあり、手軽に読めるのがありがたい。「『山の天気屋さん』の毎日は、ヒヤヒヤ・ドキドキ 山岳気象予報士で恩返し」(三五館)は、気象業務の裏話や自叙伝的な内容が盛り込まれている。富士山での致命的な大怪我や大病を乗り越えたエピソードがつづられ、感動的でさえある。
 山の天気を学ぶのは、一筋縄ではいかないというのが私の感想だ。だが、ヤマテンが日々送ってくれる予報と解説コメントを肩ひじ張らずに読みながら、新聞の天気図を「この天気図だと、こういう予報になるのか」などと横目で見ている。その作業を日々続けていると、天気図や山の天気に興味がわいてくる。ぜひ試してみてほしいと思う。

●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長などを経て現在、大阪本社大阪営業本部長。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。同社の山岳部「毎日新聞山の会」会長