登山コラム《山記者小野博宣の目》
2019年5月4~5日 稲光の丹沢主脈縦走


稲光の丹沢主脈縦走

 2019年5月初旬、ゴールデンウィークも後半戦に入った日の早朝、私は丹沢山地(神奈川県)の登山口・ヤビツ峠にいた。小田急線秦野駅からバスに揺られること約1時間。満員の車中の人いきれから解放されて、ぐっと背筋を伸ばした。新鮮な冷気を大きく吸い込み、これから歩く丹沢の山々を思った。

 丹沢山地を南北に貫く主脈縦走は、富士山をはじめとする山の連なりを常に視界にとらえながら歩く。塔ノ岳(1951m)山頂からは相模湾を手のひらに収めるように一望でき、東京や横浜のきらめく夜景を見ることも可能だ。晴れていればどこを切り取っても大展望となる、贅沢(ぜいたく)な山行なのだ。20㎞を超えるロングコースに、期待は膨らむ一方だ。だが、気がかりなことがあった。雷注意報が出ていることだ。快晴の空のどこに雷雲が潜んでいるのか。そんな思いを抱きながら、登山口に足を踏み入れた。

 最初のピーク・二ノ塔(1144m)までは1時間余り。森を抜けて急傾斜のザレ場を振り返ると、山頂にアンテナ群をのせた大山(1252m)が正三角形の美しい姿を見せている。胸のすく大展望の始まりだ。ニノ塔で昼食をとり、三ノ塔(1205m)へ向かう。三ノ塔山頂からは塔ノ岳までの、これから歩く稜線を見ることができた。広々とした空と新緑の山々に、心は踊った。

 だが、次の烏尾山(1136m)で天候は悪化し始めた。雨がポツリポツリと落ちてきた。レインウェアを着込み、ザックカバーを装着した。雨脚は次第に強くなり、細尾根や岩場の通過に神経を使うようになった。行者ケ岳(1209m)の先には高さ5mほどの岩場がある。堅牢な鎖が設置されているが、金属製のそれは雨滴で手がすべってしまい、頼りにならない。幸いにも岩の突起はたくさんある。鎖は使わず、三点確保で慎重に降下した。ここは表尾根の核心部(登山用語で、危険な場所など重要な場所を指す)のひとつで、初心者には手ごわい場所だ。

三ノ塔からの眺望。手前が烏尾山と烏尾山荘、中央が塔ノ岳
三ノ塔からの眺望。手前が烏尾山と烏尾山荘、中央が塔ノ岳。
同山頂に見えるのが尊仏山荘


行者ケ岳の先の鎖場。雨の中慎重に下る
行者ケ岳の先の鎖場。雨の中慎重に下る

 冷たい雨と風に、素肌の手先が冷えてきた。体の末端が冷え切ってしまうと、低体温症への導火線になりかねない。雨天時専用のレイングローブをはめた。これがとても温かく、乾いた手袋の中はとても快適だ。先を急いでいると、雷鳴がとどろいた。ピカッと光り、ほどなくドンッドンッと轟音(ごうおん)が天地を揺るがした。それも何度も。光と振動の間隔を冷静に数える。「1、2、3……」。間があるほど雷との距離はある。初めは遠雷だったが、稲光の直後に衝撃音が空気を切り裂いた。近い! 「我々は雷雲の下ではなく、その中にいる」と直感した。とにかく避難が先決だ。窪地があればそこにしゃがみこむ。山小屋があれば駆け込む。樹木の下に入るのは避けたい。樹木が避雷針代わりになってしまう。心は落ち着いていた。付近の稜線に山小屋「木ノ又小屋」があることを知っていたからだ。

 小屋に寄せてもらい、仲間はコーヒーを飲み、私はシーフードヌードルを食べた。室内はランプが灯され、薪(まき)ストーブもたかれていた。温かい。空腹を満たし、一息つくことができた。雷は鳴りやむことはないが、塔ノ岳山頂の山小屋「尊仏山荘」に行かねばならない。小屋主が到着しない客を心配しているだろう。樹の下を避けながら山頂を目指し、半時間ほどでたどり着いた。

 扉を開けると「おっ、よく来たな。お疲れ」。小屋主のねぎらいの言葉がありがたい。受付を済ませてくつろいでいると、20人のツアー客らがやってきた。先頭を歩く女性は旧知の登山ガイドだった。鍋割山(1273m)を超えてやって来たのだが、稜線上で落雷事故があり中年男性が亡くなったようだと彼女は話した。男性の友人が救援を呼びに行くのを目撃したという。「私たちのグループに落ちていたかもしれない……」。そう目を伏せた。私自身の心にもさざ波がじわりと広がった。これは決して他人事ではない。足早に歩き続けた私たちのパーティーに、雷が落ちたかもしれない。ただただ、運が良かっただけ……。同行の仲間3人も言葉を失っていた。

塔ノ岳山頂と富士山(2019年5月5日早朝撮影)
塔ノ岳山頂と富士山(2019年5月5日早朝撮影)

 翌朝、山小屋を出立する前に、仲間がニュースサイトで事故の新聞記事を見つけてくれた。千葉市の45歳男性が亡くなったとある。家族もおられただろう、仕事もやりたいこともあっただろう。自然の猛威に人生の舞台から引きずり降ろされた無念を思う。ご冥福を祈らずにはいられない。

 塔ノ岳からは快晴の道が続いた。どこまでも続く山道の先には、白雪をたたえた富士山がすっきりと見える。ほほをなでる風がほのかに温かく、爽快だ。丹沢山(1567m)の広々とした山頂で休憩し、さらに北へ。いくつものアップダウンを繰り返し、神奈川県の最高峰・蛭ケ岳(1673m)に到達した。富士山も近くなり、迫力が増したように思う。振り返ると、丹沢山、塔ノ岳といった主脈線の山々がひと続きに結ばれているのがよくわかる。人間の足は偉大だとつくづく思う。一歩は小さいが歩みを止めなければ、いつか目的地に着く。それが登山の醍醐味のひとつなのだ。蛭ケ岳山頂で休憩し、姫次方面への道を目指す。自然の美しさと脅威を見せつけられた山旅はあと数時間で終わる。「街にたどり着くまで油断は大敵」。いつになくそう思えた。仲間たちも真剣な表情だ。「さぁ、行こう」と声を掛け合いながら、下山口へ踏み出した。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2019年5月4、5日登頂)

蛭ヶ岳山頂からの富士山
蛭ヶ岳山頂からの富士山

コイワザクラ
コイワザクラ

【丹沢主脈縦走】
 丹沢の山々を南北に歩く。首都圏とは思えない山深さが魅力。主なピークは次の通り。表尾根=二ノ塔~三ノ塔(トイレあり)~烏尾山(同)~行者ケ岳~新大日 (1340m)~木ノ又大日 (1396m)~塔ノ岳 (同)▽主脈=塔ノ岳~日高 (1461m)~竜ケ馬場 (1504m)~丹沢山 (トイレあり)~不動ノ峰 (1614m)~棚沢ノ頭 (1590m)~鬼ケ岩ノ頭 (1608m)~蛭ケ岳 (1673m)~姫次 (1433m)~黍殻(きびがら)山 (1273m)~焼山 (1060m)

 下山は相模原市緑区になるが、バス便は極端に少ない。姫次の先の八丁坂ノ頭分岐から青根地区に下山し、「東野」バス停にて予約制のコミュニティーバスに乗るのも手だ。同バスは事前予約が必須で8人しか乗車できない。

【マメザクラ】
 表尾根、主脈のほとんどの場所で、野生のサクラであるマメザクラが咲いていた。マメザクラの花の大きさは、ソメイヨシノなど一般的なサクラと比べると、一回り小ぶりだ。木の高さもそれほど大きくなく、大人の背丈ほどのマメザクラが花をつけているものもあった。すべての花が下を向いて咲いており、見分けがつきやすい。別名を「フジザクラ」「ハコネザクラ」と言い、富士山や箱根周辺の山地で自生している。寒さなど厳しい環境に強く、寒風の中うつむき加減に咲く花はとても愛らしい。春の丹沢の楽しみのひとつだ。

マメザクラ
マメザクラ

●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを経て現在、関連会社の(株)毎日企画サービス顧問。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長
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