大菩薩嶺の山小屋「福ちゃん荘」

 山の旅は、頂(いただき)を目指すだけが目的ではない。自然を楽しんだり、温泉を目当てにしたりと人それぞれだ。友人との語らいやおいしい食事を堪能するのもいいものだ。秋も深まりつつある季節に、山梨県甲州市の名峰・大菩薩嶺(2057m)を訪ねた。山小屋に宿泊し、仲間とゆったりとした時間を過ごしたい。

 大菩薩嶺の山小屋に宿を取ることは関東在住だとまずない。日帰り登山が可能な百名山なのだ。私も毎年登頂しているが、宿泊したことは一度もない。だが、山中にある山小屋「福ちゃん荘」に一度は泊まりたいと願っていた。1941年4月に茶店として開業し、家族経営で営業を続けてきた。1969年11月4日、武闘訓練のために同荘に滞在していた過激派53人が一斉に検挙された「大菩薩事件」の舞台になった。2002年9月12日には、皇太子時代の天皇、皇后が休憩され、大菩薩嶺登山に出掛けた。過激派の学生から皇室の方までが利用した、伝説の山小屋なのだ。

 JR塩山駅からタクシーで大菩薩峠登山口に向かった。茶店「番屋茶屋」前で降りて身支度を整えて出発した。ほどなく古刹・雲峰寺の山門が左手に見えてきた。日本最古とされる日の丸の旗や武田家の軍旗「孫子の旗」など貴重な宝物を収蔵している。実物を一度は見てみたいが、今は登山に集中しよう。林道を歩き、丸川峠分岐駐車場からは山道となる。おしゃれな茶店「千国茶屋」を過ぎると、傾斜がきつくなる。砂ざれの登山道はオーバーユースと雨による浸食で深くえぐられている。苔(こけ)むした巨岩も転がる。台風の被害なのか道が沈み込んだ場所や倒木もあった。注意して進みたい。約2時間も登ると上日川(かみにっかわ)峠に到着した。この道は大菩薩峠を越えるために昔から使われていたという。ブナの巨木の影から、侍や町人といった江戸時代の旅人がふらりと現れそうだ。

 峠でトイレ休憩の後、ゆるやかな山道を登る。30分ほどで山小屋「福ちゃん荘」の玄関に到着した。声をかけると、「いらっしゃい」と女将さんが笑顔で迎えてくれた。荷物を部屋に置き、食堂の入口に回った。古びて赤茶けた屋根に、「福ちゃん荘」の白い文字が大書されていた。「お食事処」の紺色の暖簾がかかり、「甲州名物 おほうとう(山梨県名物の煮込みうどんの一種=筆者注)」「馬刺し」「岩魚塩焼き」の手作りポスターが張られている。ひなびた定食屋のような雰囲気だ。どこかほっとする。宿の「ゆどの」で汗を流した後は、仲間とアルコールを片手の語らいが始まった。ビール、日本酒、焼酎、ウイスキー……好きな山、思い出の山、次に行きたい山を巡り語らいは限りがない。つまみは甲州特産の「馬刺し」を注文した。肉がやわらかく、うま味もある。杯が何度も空いてしまった。夕食は、小ぶりのほうとうに、岩魚の塩焼き、きのこの天ぷらと地物尽くしだった。どれも素朴な味わいで、箸(はし)が止まらない。もちろん完食した。他に客は女性の3人組だけ。食事の後も薪ストーブを囲んでの会話は午後8時の就寝まで続いた。


紅葉の中の福ちゃん荘。こちらは食堂側の入り口

紅葉の中の福ちゃん荘。こちらは食堂側の入り口


福ちゃん荘の夕食。中央が岩魚の塩焼き
福ちゃん荘の夕食。中央が岩魚の塩焼き、右手にほうとうがある。
どれもとてもおいしかった。

 翌朝、温かな卵焼きの朝食をいただいた。つやのあるご飯がおいしい。そして、午前7時、大菩薩嶺へ出立した。カラマツが林立する唐松尾根を登る。傾斜は徐々に急になる。滑りやすい土の登山道や岩の上を慎重に歩いた。後ろを振り返ると、笠雲をかぶった富士山が鎮座していた。甲府の街並みも遠望でき、手前には大菩薩湖も見えた。雄大な景色に、「ほぉー」と歓声が出た。冷たい風も心地よい。一方、期待していた紅葉はいまひとつだった。福ちゃん荘の女将も「今年は紅葉が遅い」と残念そうに話していた。

 1時間ほどで尾根を登り切り、岩塊の雷岩の前に出た。普段なら大勢の登山者がいるのだが、早朝ということもあって誰もいない。ここから樹林帯をくぐり抜け、大菩薩嶺の山頂を目指した。片道10分ほどで着いた。こちらも人影はない。夏の休日なら記念撮影をする人々が列をなしている。展望もなく、鳥の声も聞こえない山頂で、互いに写真を撮り合い、雷岩へ戻った。

 雷岩から賽(さい)の河原、そして大菩薩峠への稜線はこの旅のハイライトだ。常に右手に富士山を見ながら、広々とした道を歩く。危険なところはなく、ゆったりと歩ける。大菩薩峠に着くころには天候は薄曇りになっていた。小休憩の後、下山路をたどり、福ちゃん荘に戻ってきた。昼食の時間には早いが、ラーメン好きな私は「きのこラーメン」(700円)をいただいた。女将は「きのこラーメンは今の季節だけ提供している」と教えてくれた。福ちゃん荘で朝昼晩の3食をお世話になった。秋の甲州路で、風景と食事、そして仲間との会話を楽しんだ。なんとぜいたくな旅だろうか。
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド、小野博宣】
(2019年10月26~27日)

唐松尾根の紅葉

唐松尾根の紅葉


大菩薩峠
大菩薩峠


誰もいない大菩薩嶺の山頂
誰もいない大菩薩嶺の山頂


笠雲の富士山、手前は大菩薩湖
笠雲の富士山、手前は大菩薩湖


稜線から大菩薩峠を見る。建物は山小屋「介山荘」。
稜線から大菩薩峠を見る。建物は山小屋「介山荘」。
左奥は奥多摩の山々。


きのこラーメン、700円なり。秋限定の季節メニュー
きのこラーメン、700円なり。秋限定の季節メニュー。


●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長