春の訪れ・南郷山と幕山

 冬は必ず春となる。当たり前のようだが、冬の渦中にいるとなかなか実感しにくい。暖冬と言われた2020年、厳しい寒さの日も幾日か続いた。新型コロナウイルスの拡大も終息の気配がなく、街を行く人の口元には白いマスクが目立つ。春を実感したい。そんな思いにかられて、神奈川県西部の南郷山(626m)と幕山(611m)を訪ねた。

 JR湯河原駅からタクシーで登山口となる五郎神社へ向かった。バス便もあるが本数が少ないため、タクシーを選択した。料金は1010円。数人で乗ればバス代と大差ない。五郎神社は社務所もない小さなお社だが、落ち着いた風情がある。鳥居の前にベンチがあり、装備を整えるのに使わせてもらっている。また、境内には公衆トイレもある。古い施設だが丁寧に使われており、とても清潔だ。掃除をされている方々の心遣いに感謝したい。

 神社裏手の住宅地を抜けると、道は傾斜を増していく。ミカン畑の林道を歩き、ふと後ろを振り返ると太平洋の大海原が眼前に広がった。右手に伊豆半島があり、大室山の均整の取れた山体が見える。天城山も遠望できた。洋上には大島、初島が浮かぶ。陽光のきらめく波頭に、「ほぉっ」と感嘆をもらした。ゴルフ場の脇をすり抜けるように歩き、林道に出ると山頂も近い。山頂間近で、尾羽が青色に輝く野鳥に出合った。ルリビタキだろうか。野鳥は私たちを先導するように低く飛んだ。枝にとまってはこちらを振り向き、また次の枝に向かった。その動きは素早く、私のカメラの腕前ではとても追いつけない。

波頭きらめく太平洋。右手が伊豆半島、正面の
波頭きらめく太平洋。右手が伊豆半島、正面の小島が初島、奥が大島。

 足元に目をやると、薄紫の花に目が止まった。なんとスミレが一輪咲いているではないか。2月上旬にスミレを見られるとは思わなかった。春は間近なのだ。
 歩き始めて2時間、南郷山の山頂に出た。温かな日差しの中、人々はお弁当を広げ、会話を楽しんでいた。持参したお湯とカップ麺で手早く昼食を済ませた。吹く風も温かく、冬とは思えない。幾分汗ばんできた。次に目指すのは、梅林で有名な幕山だ。関東地方のクライマーにはロッククライミングのゲレンデとしても知られている。

のどかな南郷山山頂
のどかな南郷山山頂


南郷山の山頂近く、スミレが一輪、咲いていた
南郷山の山頂近く、スミレが一輪、咲いていた

 アップダウンを繰り返すと、杉木立の中に小さな池があった。「自鑑水(じかんすい)」という。1180年、石橋山で挙兵した源頼朝が一敗地にまみれ、主従共々山中をさまよった。その際に、この池に写った自分の顔を見た頼朝がそのやつれぶりに一度は自害しようとした。だが、部下の励ましで思い直して、池を鏡に見立てて居住まいを整え、再起を誓った……そんな物語が伝えられている。事実かどうかはわからない。が、武家の棟梁となる頼朝の、若き日の苦難がしのばれる。

頼朝の伝説のある自鑑水
頼朝の伝説のある自鑑水

 広い幕山山頂は、登山者と観光客が入り混じっていた。麓に梅林公園があるせいか、スニーカーやジーパンの方々が目立つ。梅林への登山道はつづら折りの急坂が続く。ざれた路面でもあり、転ばないように慎重に下った。30分ほどすると、梅の香が鼻をくすぐった。甘く濃厚な香りだ。目を凝らすと、山裾に紅白の花が揺れていた。ピンク色の絨毯(じゅうたん)と見まがうほどだ。満開の白梅に、何羽もの鳥が群れていた。ウグイス色もあでやかなメジロだ。枝から枝へ、花から花へ。春の訪れに歓喜した小さな踊り子たちだのよう。

太平洋を望む幕山山頂
太平洋を望む幕山山頂


幕山全景。麓には4000本の梅が咲く
幕山全景。麓には4000本の梅が咲く


可憐な紅梅
可憐な紅梅

白梅がほころぶ
白梅がほころぶ


菜の花も咲き誇る
菜の花も咲き誇る

 梅花の回廊を抜けて、麓に降り立った。日陰に入ると、寒気が肌を刺した。まだ冬なのだ。手近な売店で熱燗を求めた。それでも春は近い。温かな日本酒を飲み下し、季節の移ろいを実感する山旅となった。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2020年2月9日登頂)

●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長