乗鞍岳の靴底


 乗鞍岳ほど胸のすく山はない。最高峰の剣ケ峰(3026m)からの展望は忘れることはないだろう。山なみが遠くまでうねり、足元には緑色の湖水をたたえた山上湖が見える。3000m峰に吹く風も湿気が少なく、涼やかだ。「もう一度、ここに来たい」。山頂に立ち尽くしているのに、そう願わずにはいられない。

 数年前、同僚とともに登った時は晴天に恵まれた。「雲上銀座」と呼ばれる畳平バスターミナルの喧騒を抜けて、広々とした山岳景観の中に身を置いた。コマクサ、ハクサンイチゲ、イワカガミといった高山植物が出迎えてくれた。こころ躍る山旅となったのは言うまでもない。

 2020年7月、遠来の友人と再訪したのだが、梅雨前線の通過もあって雨模様となった。雨量規制による通行止めもあり、松本市内で一泊せざるを得なかった。翌朝、レンタカーで出発し、乗鞍高原観光センターでシャトルバスに乗り換えた。ニッコウキスゲが咲くセンターのバス停からは青空も垣間見えた。しかし、山頂方向は分厚い雲の中だ。「頂きは荒れているだろうな」と予感した。

 バスに揺られること小1時間、畳平バスターミナルは深い霧の中にあった。時折小雨もぱらつく。雨具を手早くまとい、最高峰の剣ケ峰を目指した。登山道の脇には、白いハクサンイチゲとピンク色のイワカガミの花が揺れていた。

 山小屋・肩の小屋も閉じていた。ここで休憩し、登り斜面に取り掛かった。火山性の黒々とした小石が重なり、足を乗せないように注意して進んだ。足元を見て歩んでいると、はがれた靴底(ソール)を見つけた。黒いゴム製のそれは雨に濡れそぼったサンダルのようだ。「靴底がはがれて無事に帰れたのだろうか」。そんな心配がちらりとよぎった。と同時に、底がはがれるような古い登山靴をはいた登山者のうかつさにも思い至る。他山の石としなければならない。

剣ケ峰からの展望。山上湖の権現池が見える=2017年8月19日撮影
剣ケ峰からの展望。山上湖の権現池が見える=2017年8月19日撮影

ハクサンイチゲ
ハクサンイチゲ

コマクサ
コマクサ

はがれた放置された靴底
はがれた放置された靴底

登山道には割れて脱落した登山靴の先端も落ちてい
登山道には割れて脱落した登山靴の先端も落ちていた。
どんなはき方をすればこんなことになるのだろうか

 頭上の雲はちぎれるように飛んでいく。稜線上に出ると、突然暴風にさらされた。さらに、真っ白なガスに被われ、すぐ前も見通せない。GPSと地図、コンパスとホワイトアウト対策の装備は持っている。しかし、ここで引き返すことを決めた。剣ケ峰は目と鼻の先だが、3000m峰を吹きさらす風の脅威を甘く見てはいけない。転落すれば怪我では済まない。友人たちも同意してくれた。

 乗鞍岳という山は、実は存在しない。23の峰で構成された連峰の名称なのだ。ある意味それは便利なもので、どの峰に登っても乗鞍岳に登頂したことに変わりない。畳平へ戻る道すがら、富士見岳(2817m)に登り返した。時折強い風にさらされたが、登山道から10分ほどで頂きに到着した。富士見岳はご来光が美しい場所だが、その山巓は白いベールに包まれていた。しかし、どこの山でも山頂に立つのはうれしいものだ。仲間と写真撮影を繰り返し、畳平に引き返した。

乗鞍岳の富士見岳山頂
乗鞍岳の富士見岳山頂

霧で真っ白になった畳平バスターミナル
霧で真っ白になった畳平バスターミナル

畳平のバスターミナルを望む=2017年8月19日撮影
畳平のバスターミナルを望む=2017年8月19日撮影

 美しい乗鞍岳を、関西から来た友人にお見せすることは叶わなかった。人生にさまざまな局面があるように、山にもいろいろな表情がある。3000mで体験した暴風は、これはこれで得難い体験だろう。体験の積み重ねが良い登山者を育む。濡れた靴底も、暴風も、乗鞍岳の教えとしたい。
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2020年7月5日登頂)

●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長