天狗池と逆さ槍


 北アルプス山中の山小屋・槍沢ロッヂを出たのは、午前3時だった。星空の道を槍ヶ岳(3180m)に向かって、黙々と歩いた。空が薄明りとなり、山肌に陽光がさした時に、天狗原分岐にたどりついた。右に登れば槍ケ岳だ。私たち一行は左へ。天狗池を経由して、急斜面の岩稜を登り詰め、南岳(3033m)、中岳(3084m)、大喰岳(おおばみだけ、3101m)を縦走し、槍ケ岳に取りつく計画だ。歩行時間は12時間程度と長く、いくつもの岩場を超えてゆく。歩きごたえは十分だ。
 羽毛状となったチングルマの草畑を超えてゆくと、天狗池に着いた。池の向こうには槍ケ岳の英姿があった。鋭い尖峰が青空に浮かぶ。池はさざなみひとつなく、まるで鏡のように槍ケ岳を反射させていた。穂先は天空に突き刺さり、樹木による緑のマントがすそ野を広げていた。この風景は飛行機からでは見ることはできない。汗をしたたらせ、自分の足でここに立った者のみが享受できる至高の山岳景観だろう。
天狗池の逆さ槍
天狗池の逆さ槍

 静ひつな水面を眺めていると、左手の岩場からちん入者があった。3頭のサルだった。うち2頭は子ザルのように見える。ほとりにたたずんでいたサルたちはしばらくすると、なんと池に入るではないか。手足を付けていたと思うと、頭を水につけ静かに体を浸し、器用に泳いでいた。水辺に上がると、ブルッと胴震いを繰り返した。ユーモラスな動きに、思わず笑みがもれた。温泉に入浴するサルの映像は見たことがあるが、天狗池で水遊びするサルは聞いたことがない。サルたちは私たち人間にはまったく興味も、恐れも示さない。ところが、右側のハイマツの茂みから、身体の大きなサルが姿を見せると、3頭は素早く立ち去った。違う群れのサルだったのだろうか。サルの世界の力関係のようなものを垣間見た気がした。ちなみにだが、私の岳友の1人は「天狗池の水は飲める」と話していた。だが、サルが泳いだのを見てしまっては、「あれは飲めない」と助言した方がよさそうだ。
天狗池で水遊びをするサル
天狗池で水遊びをするサル

 天狗池を後にして、南岳への急峻な登はん路を登りつめた。鎖、はしごもある。慎重に進みたい。稜線に出ると、南岳へ。20分ほどの距離を往復し、中岳へ歩みを進めた。出発してすぐの小岩峰が曲者だった。岩稜に取りついて、◎印のペンキマークに従って登ってゆく。大きな岩を越えると、壁のような岩場が現れた。この岩壁を横移動しないと前へ進めない。足元は幅の狭い岩のステップはあるが、手元に鎖はない。両手で岩角をしっかりつかみ、慎重に足を運んだ。鎖のないカニのよこばいとでも言おうか。
天狗池をあとにし、急傾斜地を登り詰める
天狗池をあとにし、急傾斜地を登り詰める

 中岳は岩屑の山だった。登りは急な傾斜の岩の間をジクザグに進んでいく。下りははしごがかかる。降り始めた雨の中を、ゆっくり下りた。大喰岳の山頂はとても広い。進むべき方向をしっかり見極めたい。
中岳の山頂
中岳の山頂

 ようやく槍の肩にたどり着いた。しかし、雨と霧で視界はきかない。こんな時に、登るべき山ではない。「来年また来ればいい」と同行者とうなずき合い、今夜の宿・ヒュッテ大槍に急いだ。富士山や槍ヶ岳、北岳といったスターぞろいの標高3000mの峰々にあって、南岳、中岳、大喰岳はその存在を忘れられがち。それでも私は「いつかは登りたい」と考えていた。そのせいなのか、長年の宿題を終わらせた気分に浸っている。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2020年8月28~30日)

南岳山頂
南岳山頂

トウヤクリンドウ
トウヤクリンドウ

槍沢ロッヂの朝食弁当。ちらし寿司で
槍沢ロッヂの朝食弁当。ちらし寿司で、行動食として食べ続けました

北穂高小屋から、槍ヶ岳方面を眺める
北穂高小屋から、槍ヶ岳方面を眺める。手前の稜線は大キレット。
その奥に南岳から槍ヶ岳が続く(2019年8月5日撮影)



●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長