青空と鷲羽岳

 白い朝もやが明けると、その向こうにあったのは黒い岩肌の峰々だった。穂高連峰がその威容を見せた瞬間だ。槍ケ岳(3180m)、北穂高岳(3106m)、奥穂高岳(3190m)、西穂高岳(2909m)といった山の縦列に、目も心も釘付けとなった。北アルプスの山中にある鏡池の前には、登山者が居並び、みな一様に歓声をあげていた。なんとぜいたくな風景だろう。そして、この絶景はこれから始まる山旅の開幕を告げるものだった。

鏡池に映る穂高連峰。左端が槍ケ岳
鏡池に映る穂高連峰。左端が槍ケ岳、大きくくぼんでいるところが大キレット


 私たち一行は午前6時に池畔に建つ山小屋・鏡平山荘を出発し、次の山小屋・双六小屋に向かった。登山道を登り詰め、標高2500m余りの弓折分岐に到達した。ここからは快適な稜線歩きだ。左手には常に穂高連峰があり、楽しませてくれる。鞍部(尾根がくぼんだところ)にあるくろゆりベンチを過ぎると、双六小屋が視界に入るようになる。双六池の先に赤い屋根の双六小屋があり、目指す鷲羽岳(2924m)も遠望できた。

 双六小屋でサブザックに換えて、双六岳(2860m)、三俣蓮華岳(2841m)へ。小屋の脇から始まる急斜面をゆっくり登り、稜線ルートをたどって双六台地に上がった。登山道というよりも広場といった方がいい。振り向くと、一本の道が槍ケ岳につながっているように見えた。空へと続く滑走路のようだ。双六岳山頂で一息つき、アップダウンを繰り返して約1時間後に三俣蓮華岳の頂を踏んだ。山頂は富山、長野、岐阜県の県境になっているという。「三俣」という山名は、それが由来なのだろうか。

双六台地。槍ヶ岳の滑走路のように見える
双六台地。槍ヶ岳の滑走路のように見える

 山名標の向こうには、緑のハイマツに包まれた鷲羽岳の英姿が見えた。山頂を中心に羽を左右に広げた大鷲に見える。どっしりとしていて、そのくせ躍動感もある。急斜面につけられた登山道はざれており、歩行に苦労するのが見て取れた。山頂付近は岩場になっているが遠目には道がどこについているのか、判然としない。滑落すれば、大けがでは済まないはずだ。「これは登りがいがある」。緊張感が走った。同行の友人たちも真剣な面持ちで見つめていた。

鷲羽岳
鷲羽岳

 双六小屋の夕食は名物の天ぷら定食だ。ちくわやナス、カボチャが厚い衣で包まれており、素朴な味わいだ。山仲間との語らいは弾んだが、心の片隅に鷲羽岳の急斜面があった。「無事に登れるだろうか」「誰もけがをせずに下山できるだろうか」。筆者の悪い癖なのだが、険しい山に登る前には不安に駆られてしまう。そのために事前研究は十分にして来ていたのだが、実際の難路を見てしまうと心穏やかではない。しかし、「心配しても仕方ない」と午後8時には布団に潜り込んだ。
双六小屋名物の天ぷら定食
双六小屋名物の天ぷら定食

双六小屋に設置された大きなサイコロ
双六小屋に設置された大きなサイコロ。これを持って記念撮影ができる

 翌日も午前6時に小屋を出発した。この日も快晴に恵まれ、穂高の峰が青空にくっきりと浮かんだ。鷲羽岳の麓まで約2時間の道のりだ。前後左右どちらを見ても山また山だ。岩場や緑のハイマツの中をどんどん進んでいく。吹く風は冷たく、冬の到来を告げていた。だが、湿気はなく、とても爽快な山旅だ。

 山麓の山小屋・三俣山荘で休止し、双眼鏡で登山道、山頂付近を覗き込んだ。山頂近くまでの道は砂と大小の石でざれているのが確認できた。山頂付近の岩場を慎重に歩む人の姿もあった。「登山道は明瞭のようだ。慎重に行けばなんとかなるだろう」と結論付けた。
 装備を整えて、登山道に取りついた。行く手に不安がある時は、下りてきた登山者に教えを乞うのが手っ取り早い。男性登山者とすれ違った際に、「今日は晴れて最高ですね」と声をかけた。さらに「山頂付近に危ないところはありますか」と尋ねた。男性は「危険な場所はどこにもないですよ。ざれているのに注意すれば大丈夫」と笑顔で答えてくれた。

 砂と石屑の道は次第に斜度を増してきた。滑らないように一歩一歩を慎重に置いた。急傾斜地にかかると道はつづら折りとなった。ここでも浮石を踏まないように細心の注意を払った。浮石による転倒・滑落は登山者の命を奪う。山頂付近の岩場は両手を使う場所もあったが、難易度は高くない。懸命に登ること約1時間半、傾斜が緩くなり、山頂が視界に飛び込んできた。大勢の人々が談笑しているのが見えた。そして、我々も鷲羽岳の頂を踏むことができた。穂高連峰はもちろん、大天井岳(2922m)、燕岳(2763m)も見える。黒部五郎岳(2840m)、薬師岳(2926m)、遠くに立山(3015m)、剱岳(2999m)もあった。足元を見ると、かつての火口に青い湖水をたたえた鷲羽池が見える。その先には槍ケ岳が屹立していた。青空と高峰に囲まれた山巓で、笑顔の友人たちがいる。何という幸運に恵まれたのだろう。
鷲羽岳山頂
鷲羽岳山頂


鷲羽岳山頂から。手前の火口湖が鷲羽池
鷲羽岳山頂から。手前の火口湖が鷲羽池

 双六小屋特製の弁当を広げて、帰路のエネルギーを補充した。下山は登りより慎重に歩かねばならない。身体は登りよりも疲れており、疲労から来る注意散漫が最も怖い。最後まで気を引き締めて、双六小屋まで歩いた。

 4日目に新穂高温泉への道をたどった。高度はぐんぐん下がり、鷲羽岳はすぐに見えなくなり、穂高連峰も姿を消した。登山道は山の世界と下界をつなぐ道だが、そこを下りる時は安堵感と一抹の寂しさを覚えるものだ。「山に3日の晴れなし」とよく言われるが、4日間もの晴天に恵まれたのは幸せだったというしかない。「こんなに恵まれた山旅はもうないだろう」としみじみ思う。それだけに、都会に戻った今も、寂寥(せきりょう)感が熾火のようにくすぶっている。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2020年9月19~22日)

【新穂高温泉】
鷲羽岳や双六岳、笠ケ岳、西穂高岳などへの登山口となっている。日帰り入浴施設や食堂もあり、登山者にはありがたい。高速バスや路線バスで乗り入れるが、季節により便数などに変動がある。事前の下調べが大切だ。東京から最も便利なのは、登山バス「毎日あるぺん号」となる。東京・竹橋から平湯温泉などを経由し新穂高温泉まで乗り入れている(運行は7~11月の特定日)。当コラムの山旅も往路はあるぺん号を利用した。2021年度は大阪、京都発着も予定している。

●筆者プロフィール●
 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長